読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

インドの猫

日記というか、気が向いたと記

インドブーム

 インドブームが来ている。ジュンパ・ラヒリという人の「停電の夜に」という短編集を読んだ。最後に収録されている「三度目で最後の大陸」という短編が好みだった。ちょっと前に買って積んだままのサルマン・ラシュディという人の「真夜中の子供たち」も早く読みたい。少し難しそうだったけれど。内容を読んでいないので確信は持てないが、このブログでも何回か言及している私が敬愛して止まないバンド、GRAPEVINEの最高傑作とも言われる「真昼のストレンジランド」に収録されているアルバムのリードトラック、「真昼の子供たち」のタイトルはこの本をもじってつけているのではないかと思う。またandymoriの作品のなかにもインドは度々出てくる(「憧れのインディアは遠かったけれど / Follow me」「昔インドの偉い人 サフラン色の風の中 Life Is Maya 呟いた / Life Is Party」など)。「インドに行って世界観が変わった」なんてくだらないと思っていた時期もあったし(andymoriへの愛から単純な観光としての興味はあったが)、そんな人々を揶揄するような曲(私はあんまり好きじゃない)もあったが、そろそろ足を運ぶべき時が来ているのかもしれない、とはいえ年単位では先になりそうだが。

 あとは神秘的体験(この呼称は正確とは言えないかもしれない、いささかいわゆる「スピリチュアル」な印象を与えすぎる)の内容に自分と通じるものを感じて、図書館でクリシュナムルティという人の「知恵の目覚め」「時間の終焉」を借りた。後者はちょっと難しそうだったので今は前者を読み始めた。最初の章から「世界はあなたですし、あなたは世界です。いいですか。それはあなたにとって事実(Fact)でしょうか。またはただの観念でしょうか。理解していますか。これを理解することはとても重要です。」という一文が出てくる。私にとっては紛れもない事実として感じられることである。以前Twitterのアンケート機能を利用した際、100票ほど集まって、同じような体験をした人の割合は半分程度いた気がする。意外と身近な経験なのかもしれない。なぜ異なる人々の間で同じような経験が共有されるのか。その源泉はどこか。他には、知的であるということは、これまでの知識を運用して行動することであり、活動的であることは挑戦し、疑問をもつことであるとして、世界の混乱の根本原因を取り除くために私たちは活動的でなければならないということ、それはつまりこれまでの頭脳の条件付けから解放されること、解放されるよう努力をしなければいけないということが書かれていた。

 インドといえば、このブログのタイトルもインド絡みではあるが、特に意味はなく語感で決められている。日本でもインドでも猫はニャーンと鳴くのである。少なくとも私にとっては。